LINER NOTES
ライナーノーツ

レイメイとは?

さユりとMY FIRST STORYが共作し、共演を果たした“レイメイ”。
この曲を初めて聴いたのは、今年の夏、8月5日、ひたちなか。ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018のステージにおいてだった。
灼熱の日だった。12時45分、さユりは、自身のステージが終わった直後、MY FIRST STORYが出演するLAKE STAGEに向かった。
青すぎるほどの晴天の中、怒涛のようなサウンドでオーディエンスを鼓舞し、熱波に巻き込んでいくMY FIRST STORYのパフォーマンス。
その終盤、「力を貸してくれ」というHiroのMCに呼ばれ、さユりは、熱気をまとったオーディエンスが待つ、大きなステージに飛び出していった。
そして歌われた“レイメイ”。
それまでの、真っ赤に燃え上がるような、巨大な興奮が取り巻いていたそのステージに一筋の涼風が吹いたような、どこかひんやりと澄み切った空気が降りてくるかのような、急激な変化がその時、LAKE STAGEに訪れたように感じたことを強く覚えている。
マグマの湧く大地にオーロラの幕が振り落とされるような、「熱」と「清」の共演、交わり。
いや、覚えているのは、さユりとHiro、どちらかが「熱」で、どちらかが「清」であるというような明確な何かではない。ふたりともに熱く、清らかで、ふたりの中で渦巻いている「熱」と「清」が瞬間ごとに入れ替わっていく、そして交差し、交わっていくそのスリリングな時間の強烈さについて、である。
ふたりの声の震え、ゆらぎ。巨大なサウンドスケープ。灼熱の太陽。興奮を絶やさずに歓声を上げ続けるオーディエンス。
それらはすべて、この楽曲が鳴らされた5分間にしかない奇跡じみた「体験」を演出するものに思えてしまう。そんなあまりに鮮烈な、忘れがたい時間だった。嘘のような5分間だった。
その日、そんな奇跡を目撃するまで、どこかで心配をしている自分もいた。
というのも、さユりはいつも、たったひとりで歌の世界観を作ってきたし、ひとりで佇むその孤独をどこか支えにし、自分の体をぎゅっと抱きしめるようにして――つまり、「孤独な自分」を認識し、その自分を越えたいというアイデンティティの中で戦い、歌い、言葉を紡いできたからだ。
アルバム『ミカヅキの航海』はそんなさユりにとって、それまでの20年の人生を肯定し、その先へ進んでいくという宣言がなされた作品だった。
「ひとり」が、また違う「ひとり」に出会うからこそそこには希望が生まれるんだという確信。
さユりの歩みとは、その確信を求め、積み重ねていくことその道程のことだったと言うことができるだろう。
「人はひとりである」「だからこそ、希望があるんだ」という観念に基づいた、どこか倒錯したポジティヴィティ。
そんなさユりがコラボレーションを果たすというのである。
彼女の世界観は揺さぶられ、新たな物語が始まる、そして、それは彼女の表現を根本から変えてしまうものなのではないか――。
僕は、そんな不安と期待がないまぜになった感情を持て余すような感覚をずっと持っていた。
結論めいた話からしてしまうのならば、このシングル『レイメイ』はさユりの作品である。それはもう完璧なまでにさユりのシングルであり、さユりにしか歌えない、さユりだけの世界がそこには綴られている。
つまり、孤独の叫びであり、世界との摩擦を嘆く言葉であり、しかしそれでもつながりたいという願いで包み込まれた、かすかで、だが絶対に消えない希望の歌である。
しかし、驚くべきことに、“レイメイ”はまったく同じように、MY FIRST STORYの楽曲なのである。どう聴いてもMY FIRST STORY、Hiroが歌うべき世界がここには間違いなく刻まれているのである。
さユりとHiroの真っ白な声が出会い、お互いの世界を汚すことなく、平行線をたどるように、しかし美しく絡み合って、「孤独」と「孤独」のあり方をぶつけ合う。そして、その不器用なコミュニケーションの果てで、つながりたいという願いを交歓している。
恐れることなく、震える感情をそのまま言葉に託し、歌という表現の強さを体現していくさユりの歌声。
喜怒哀楽を吐息ひとつで表現するかのような、重層的な感情を込めて吐き出されるHiroの歌声。
その声は似ているわけではない。
しかし、何かが確実に似ている。
それはあえて言うなら、歌うことの理由、あるいは歌うことでしか手に入らない願い。そして、歌っても歌っても、決定的に満たされる日は来ないのだろうという業とでも言うべき、歌への必然性。
歌う理由も願いも、あるいは歌い続けるしかない業も、それぞれに抱え、飲み込み、乗り越えようとあがいてきた「孤独」を取り囲むように存在しているものなのだとして、その孤独の形が似ている。
言葉にするのなら、ふたりがまとっている空気はそういうものなのではないか。
レイメイ。黎明。
それは、何かが始まり、夜が明けていくさまを思わせるとても美しい言葉である。
さユりとHiroが出会い、孤独の形を共鳴させることで生まれた曲にこのタイトルが冠されたことは偶然などではもちろんない。
リスナーには歌詞に向き合い、この5分間を追っていってほしいと願う。
欲望、夢、歪な運命——。さユりが歌う言葉はどこか裏腹である。「君」を求める「私」。しかし、求めれば求めるほどに遠ざかっていく黎明の時。
しかし、さユりはここで、「その時」の情景を描き、「君」に思いを伝えることができるその日まで進み続けていくのだと鋭く、力強く歌っている。

嘘、彷徨、苦しみ、冷たい約束——。Hiroが発する言葉は憂いそのものだ。荒れ狂うような荒波を進むことが人生なのだと悟り、その哀しみを叫びに変えていく「僕」。
そして、深く永い旅の中で、「君」に出会うことができるその日まで、泥濘のような日々の中で「祈り」を描くんだと、Hiroは気高く歌っている。
ふたりは、ただただ「ひとり」である。この楽曲においても、ふたりは徹底的に、「ひとり」と「ひとり」なのである。
ふたりは、そんな「ひとり」と「ひとり」の主人公に自らの言葉を託し、まるで地を這うように切実に、「その時」への思いを歌っていく。

さユりは曲中においても、「言葉」を綴り続けていく。
詞であり、詩であり、呟きであり、同時に心底からの叫びでもある言葉たちの羅列。
心の震えがそのまま、言葉という輪郭を与えられ、「ひとり」と「ひとり」の間にかすかなつながりを生み出していく。
さユりの言葉は、孤独と孤独のあいだに、小さな飛び石を落としていくかのように、かすかな希望を描き出していく。
Hiroの優しく、真っ白い歌声。
彼の声は、さユりの言葉と言葉を手引きし、つなげ、熱を与えていくかのようだ。そうして、この楽曲は徐々に時を刻み、やがて訪れる「その時」へと向かっていく。
楽曲のラスト。
ふたりはそれぞれの歩みを続けてきた最後の最後に、同じ叫びを重ね合わせる。
それはこんな言葉である。

「たった一つの朝焼けを手に入れるの」――。

さユりはこれまでもずっと、人間は「ひとり」なのだと、しかし、だからこそ、「ひとり」と「ひとり」の間に生まれる希望を諦めたくないんだ、という叫びを歌ってきた。
その歩みは、切実だった。
そして、歳月を重ねるたびに、力強さとまっすぐさを獲得していったその歌。
その日々は、彼女自身のモチーフ=「ミカヅキ」が徐々に美しい円に近づいていくさまを思わせるような、とても感動的な歳月のことでもあった。
そして、さユりはその旅路の最先端に立ち、今、“レイメイ”にたどり着いた。

さユりはここで再び、「ひとり」はやはり「ひとり」なのだと綴り、「ふたりのレンズには別々の景色が写っていた」と呟き、そのやるせなさを受け止め、ただただまっすぐに歌っている。
絶対に譲れない思いがある、その思いを「君」に伝える日まで、進み続けていくのだ、と歌っている。

そして、その先にこそ、「ひとり」と「ひとり」が、孤独と孤独であることを受け入れることで手に入れられる、「たった一つの朝焼け」があるのだと歌っているのである。
そんなあまりに歪であまりに美しい瞬間=“レイメイ”に出会えたさユり。
この泥臭く、圧倒的に眩しいこの歌を、さユりにとっての「新しい歌」と呼ばずになんと呼んだらいいのだろうか。
僕は今、そんなふうに思う。

人間は「ひとり」同士だからこそ出会える奇跡があるという真実。
これまでも、これからも自身を突き動かしていくに違いないその真実。

そんな奇跡に「レイメイ」という言葉を与え、いつか出会うべきだった宿命の情景が広がる夜明けの地に立ったさユりの旅は今、また新たな目的地へと向かって進み始めたのだ。


小栁大輔(ROCKIN'ON JAPAN編集長)

「月と花束」とは?

たったひとりで世界の端に佇み、夜空を見上げ感じる「孤独」を生きる実感にしていた
少女は今、新たな意志を持って、新たな一歩目を踏み出した。
彼女は、その先には「誰か」がいるという事実をここまでの過程で知り、
そして彼女はそんな「誰か」に、生きる「実感」を与えるための歌を、
今あらためて歌い始めた−−−−。

いきなり大仰な書き出しに感じられるかもしれないが、さユりが放つ
ニューシングル『月と花束』とは本当に、そんな大切な意味が込められた
シングルである。2017年5月、デビューから2年の軌跡を刻んだファースト
アルバム『ミカヅキの航海』をリリースしたさユり。
それは19歳でデビューしたさユりが「自分」を知り、自分の孤独が根差して
いる場所を知り、孤独との付き合い方を知り、そしてそんな自分だからこそ
生きる場所がある、できることがある、ということを知るための−−−−つまり、
ひとりで「航海」に出るための−−−−準備と戦いの日々をそのまま収めた作品
だった。そこには、ひとり欠けた月を見上げる「酸欠少女」もいたし、
あるいは、他者とは平行線の存在なんだ、だけどそこには確実に「存在」
する人がいるんだというギリギリのポジティヴィティに懸ける少女像も、
十億年という歴史の先端に生きるすべての人々を抱きしめたいという儚く
大きな願いに身を捧げる少女もいた。

自分をとらえている孤独とは何か?
存在とは何なのか? 時間とは? 歴史とは? 誕生することとは? 
奇跡とは? 必然とは何か? 
そして、そんな問いのすべてを積み重ねてきた自分はこれから何を願うのか?

さユりは、そんな自問自答を繰り返していく日々の中で、『ミカヅキの航海』
という素晴らしい作品を創り上げたのだろう。
だからつまり、『ミカヅキの航海』とは、それまで20年生きてきたさユり
という人間の、20年分の、文字通りの「すべて」だったのである。

そんな「すべて」を込めた作品を経て、さユりは今何を歌うことにしたのか。
その答えが、このシングル“月と花束”に込められている強く、鮮烈なメッセージなのである。

さユり自身のまっすぐな歌声から始まる“月と花束”。
性急なテンポで矢継ぎ早に言葉が紡がれ、暗く生い茂る森を抜けていくような
イメージを振りまきながら、メロディは暗闇を切り裂き、疾走していく。
そして、やがてさユりはこんな言葉を歌う。

《止めることも繋ぐことも できるこの日々を 潜り続けるのは 君がいるからだ》
《迷いながら探していた ここにいる理由を 君が笑ってくれるのなら 答えになるから 今日も生きるよ》

他ならぬ「誰か」、今この声を聴いてくれる誰か、20年にも及ぶ時間、
決死の歩みを続けてきたさユりに今出会ってくれる誰か、そして何より
今「さユり」という存在を求め、必要としている誰か−−−−。
つまり、この楽曲は、「君」のために歌われた歌であり、「君」と「私」の
出会いの必然の形そのものであり、さユりが今歌うことの理由を言葉にした、
ある種の「誓い」のようなものなのだと思う。

そんな大切な楽曲が生まれてくるまでの心の動きを、さユり自身はこう振り返る。

「アルバムを発売した後、まっさらな状態で。でもアルバムを出した
状態の中で、自分の中で何かが変わらないとこれから先には進めないぞ
と感じて。私のこれまでは自分の輪郭を広げる作業だったんですよね。
でも、自分はこうだ!って何かを選ぶことはしてこなかった。だけど、
これから戦っていくのなら、やっぱり何かを選ばないといけないと
思って。初めて、何かを選んでみようと思って書いた曲です」

では、さユりは“月と花束”で何を「選んだ」のだろう?

それはきっと、「世界」、だったのではないか。
さユり自身が生きていく世界、その輪郭を決め、そこにある可能性を
見つめ、自分ができることの役割を見つめ、その役割に身を投じていくこと。
あるいは、その世界には自分が存在することで救うことができる誰かがいるんだという真実。
そして、その一方にある、「選ばなかった道を進むことはできない」という事実。
さユりは、そのすべてを受け入れることを選んだのだろう。
自分が生きていく世界には、自分が選んだ「世界の中」もあれば、
選ぶことができなかった「世界の外」もある。
しかし、そうやって生きていくことで強烈に出会える誰かがいるんじゃないか−−−−。
さユりは今、そんな生き方を選ぶことにしたのだと思う。

「これまで私は敵を作りたくなかったんです。いろんな曲の中で『今私は
中間地点にいる』『進みたい、進めない』っていうことを歌ってきたんです
けど。進む方向を決めることで、何かをひとつ置き去りにしてしまうような
気がして。自分はやりたくなかったんです。
でもそうすると自分がどこにいるのか、自分を好きでいてくれる人のことも
どこか遠い場所から見ているような感覚もあって。それで、自分はここに
いるよということを言ってみるということをしてみたいなと思ったんです
よね。嫌いなものを作らないから、好きなものもぼやけてたんですけど、
好きなものを好きって言ってみたいなって。私はここに立っていて、
ここから見える世界はこうだよって言ってみたかった」

そんな鋭い決意を込めて歌われていく“月と花束”では、二度のコーラス
部分を経て、やがてあまりに決定的なフレーズが歌われることになる。
さユりはきっとこれから先、今この言葉を選んだ自分の心の形に向き合い
ながら、その意味を考え、その必然がやってきたところへの思いを巡らせ
ながら生きていくのだろう。
そんなあまりに決定的な言葉たちは、こんなふうに綴られる。

《信じなければ傷付かないか? 進まなければ失くさないか?
 それでも、 わたしは 知りたい 進みたい もう背けない》−−−−。

いささか断定的な言い方を許してもらえるならば、僕はこの楽曲はこの
言葉たちを歌うために、この言葉たちを他ならぬ「君」に届けるために
生まれたのではないか、そんなふうに思えて仕方がないのである。
儚く震え続ける繊細さを包み込むように届けられるさユりの歌声、
その強さ。
確信を増したその存在感はこれまでのさユりの中に眠っていた何かであり、
これからのさユりが向き合い、育て、ともに歩んでいく新たな実像なのだろう。

「一番自問自答しているところだと思うんですけど、『私が私から逃げたまま
手に入る世界なら もう いらないよ』とも歌っているけど、じゃあ私は何が
ほしいんだろう?ということを歌いたかった。このDメロは歌詞とメロディが
すとんとはまったんです。ああこれを歌うのが正しいんだって思いました。
もういらないよ、それでも知りたい、進みたい。ストレートな言葉なんだけど、
この言葉が出てこなくて。こういうことが言いたかったのに、もやもやしてる
時期があって。だから、ここにたどり着くための、それまでのメロディなのかな
って思います。“ミカヅキ”のときに歌った『それでも』は、痛みの感触を受け
止める気持ちというか、自分の中にある痛みとか弱さをはねのけて外へ向かう、
っていう感じだったんですけど、ここにあるものは外にあるものとの対峙というか、
これから受けるであろう傷はきっともっとすごいものなんだって。先にある何かを
知ったうえで、もっと強い覚悟が必要なんだって思ったんですよね。ここにある
『それでも』はそうやって歌う『それでも』なのかなって思うんです」

さユりが初めて、「それでも」という言葉を選び、「孤独」を超えて、世界に
歩み出すことになったデビュー曲“ミカヅキ”から2年半。
今、彼女は再び、「それでも」という言葉を歌うことを選んだ。
そして、その「選択」とはつまり、かつての「酸欠少女」のままでは決して
見つけることはできなかったであろう覚悟と決意に身を捧げていく自分、
そして、そんな新たな自分が出会うべき「君」がいる世界へと歩みを進めていく
ことを選んだ、ということだろう。
多くの傷や、多くの痛みがこれから自分自身に襲いかかろうとも、その先に
「君」がいるから歌い続けていくんだ、「君」がいるその場所まで歩いていくんだ−−−−。
“月と花束”とは、そんな新たな誓いを刻んだ、とても切実で、とても尊い楽曲なのである。
さユりがついに書くことができた「歌うことの理由」。
そのもっともリアルで、もっともはっきりした輪郭が“月と花束”に込めれているもののすべてである。

「今まで遠い過去に思いを馳せたり、月を見上げたりしてきて。それで今私は
ここにいるんだっていうことを感じてきたんですけど。今回は、目の前を見て、
初めて作った曲なんですよね。そうやって見つめてみた目の前に何がいたのか? 
人がいたんですよね。月は自分では光ってないじゃないですか。月は自分では
光らない。じゃあ、私自身が光るってどういうことなんだろうって考えたら、
その人たちからもらったものを火にして、太陽にして、光るっていうことなん
じゃないかって。それが『私が光る』ということなんだなって思ったんですよね」

たくさんの、孤独な夜を埋め尽くしきた自問自答を経て、たったひとりの「航海」
に漕ぎ出した少女は、今この「世界」で生きることを選び、多くの傷や痛みを引き受けていく覚悟を選んだ。
そして、その覚悟とは、同じ世界に生きる「君」の孤独を救い、生きる実感を届け、
ともに世界を生き抜いていくための願いを歌う、そんな確かな存在になっていく
ために必要な、やがてさユりが向き合うことになる大切な覚悟だったのだと思う。

世界に生きる誰しもの孤独と共振し、同志としての歌を紡ぐことができる稀有な存在としてのさユり。
そんな彼女が今、この「選択」をすることができたという事実を、僕はたまらなく嬉しく思う。
なぜなら、その選択の先に、一対一で向き合うことで生まれるポップミュージック
の魔法が花開く瞬間、そしてすべての一対一の関係、つまりすべての「君」を救って
いくことでたどり着く瞬間が待っている気がして仕方ないからだ。
そう、その瞬間とは、他ならぬさユり自身が自分自身の力で光り輝く、とても美しい未来のことだ。

さユりの航海を、これからも近くで見続けていきたいと、“月と花束”に出会いあらためて思う。
その思いはきっと、多くのリスナー、あえて言うなら、たくさんの「君」たちも
まったく同じなのではないだろうか。

小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)

「ミカヅキの航海」とは?

ついに、ついに記念すべきファーストアルバムが完成した。
デビューシングル『ミカヅキ』に始まり、続くリリース作品『それは小さな光のような』『るーららるーらーるららるーらー』『フラレガイガール』『平行線』とすべてのタイミングで原稿を書かせてもらってきて、すべての布石をこのアルバムが見事に回収していく、そんな小気味よさを感じている。
きっとその手応えはリスナーにとっても同じなのではないか。
19歳でデビューを果たし、二十歳になったさユりの成長と変化の軌跡、それがこのアルバム『ミカヅキの航海』の実像である。 

さユりはここまでの生涯を、いや少なくとも楽曲を書き始めた15歳からの5年間を、「この作品を書くために」過ごしてきたと言ってもいいと僕は思う。
それほどまでに、この作品には自らを「欠けた月」=「ミカヅキ」と名乗り、航海に出るんだと決意を固めて今ひとり世界に立つさユりのリアルな息遣いが刻まれている。

「自分でもいい作品だと思います。15歳から二十歳までの長いスパンをかけて作ったアルバムなので成長記録のような作品だなと。『航海』は『後悔』ともかけていて、これまでの生き方を後悔しながら、それでも航海していくという、過去から未来に伸びていくような作品になるといいなと思ってました」

これまでのテキストの中でも触れてきたが、さユりは最初、「自分のために」歌を作り、歌っていた。
世界の中に居場所を見つけられない自分。
どこかに居場所があることすら信じられない小さな自分。
誰と話しても、実感のあるやり取りができず、孤独感を膨らませていく自分。
そして、そんなひとりきりのシェルターの中でしか生きていけない自分を見つめる自分。
さユりは、そんな自分を「ミカヅキ」と呼び、「それでも」生きていくんだ、という決死の覚悟を描くために歌を歌ってきた。
誰のために?
自分のために。
自分が自分として、この世界の中で生き、一歩ずつ進んでいくために。

彼女が初めて世の中に広く認識された楽曲“ミカヅキ”で歌われたのは触れれば壊れてしまいそうに繊細に震える、小さな「宣言」だった。
その「宣言」はこんな歌として、僕らのもとに届けられた。
そうして、19歳の孤独な少女は、「酸欠少女」としてデビューを果たした。

《当の私は 出来損ないでどうしようも無くて》
《それでも 誰かに見つけて欲しくて/夜空見上げて叫んでいる》
《欠けたものを探した そんな自分を変えたい》

本作『ミカヅキの航海』は、そんなデビュー曲“ミカヅキ”から始まる。
この曲から本作までの日々を振り返り、さユり自身はこう語る。

「すごく変化したなと思います。 デビューして、タイアップのお話を頂くことも多くて、曲を作っていく中で、社会の一部になっていくような、その作品の一部に自分の存在が入っていくような感覚があって。 自分がひとりで作ってきた音楽の可能性は広がっていくんだなと感じたのが“ミカヅキ”で。 人と触れ合う中で可能性を広げていきたいと思って生まれた2枚目のシングル『それは小さな光のような』があって。 こうやって外に向けて広がっていけるんだなと思っていたんですよね。 10代の頃は自分の未来が明るいわけないって思って過ごしてきたんです。 音楽の夢がある反面、自分の未来を信じられなくて、自分にブレーキをかけているような気持ちで。 いつもこれが最後だって思いながら曲を作っているような気持ちがあって。 でもアルバムを完成させていく中で、音楽が最近好きになったな、これからが始まりなんだって思えるようになった。 それが一番大きな変化だと思うんです。 デビューさせてもらって、いろんな人に必要としてもらえるようになっていく中で、自分を信じられるようになって。 今はできないことは、きっとこれからできるようになることなんだと思えるようになった」

『ミカヅキの航海』、この作品に刻まれているひとりの少女の物語の始まりが“ミカヅキ”なのだとしたら、今さユりが立っている現在地は、もっとも最後に生まれたという新曲“十億年”にこそあるだろう。

アタックの効いたシンプルなアコースティックギターのストロークから始まるこの曲は、そのタイトルからも連想されるように、ゆるやかでたおやかな時間の流れを淡々と描いていく。

「十億年前っていうのは、多細胞生物が生まれたあたりなんですけど(笑)。 自分がライヴの空間で歌っていて、聴いてくれている人がいるっていう光景を意識しながら作った曲なんです。 みんな、その場所に来るまでにいろんな人生があって、いろんなことがあったんだと思うんです。 決して楽しいことばかりではなかったはずだけど、それでもここで出会えたこと。 それを肯定して、祝福したいという気持ちで作りました」

《流されて辿り着いた歴史は/いつでも何かに怯え進んできた》と語られるこの楽曲は文字通り「十億年」という時の流れに思いを馳せたさユりの心情をとらえた楽曲である。
と同時に、「十億年」という悠久の時の流れの中で生まれ、終えていった無数の物語がただひとつだけ等しく持っている、「はじまり」と「終わり」、そのサイクルの無常さを歌った曲でもある。
そして、その無常なる日々の在り方を、二十歳のさユりが必死に肯定し、抱きしめようとするかのような、とても力強い楽曲である。

さユりはこう続ける。

「今までは世界にはなんとなく正解があって、正しいことがあるんだって思っていて。 その中で自由に生きていいんだって。 でもある時、ほんとは正解なんてないんだって思った瞬間があって。 それが自分の中では大きな発見で。 わたしたちは本当に自由なんだって。 自分は自分のために生きていいんだって、この長い歴史はみんなあなたのためにあるんだよっていうことが言いたくて作った歌です。 あなたの周りにあるものはみんなあなたが自由に使っていいんだよって」

そう、さユりは今、目の前にある世界、その世界に生きる他者の日々を肯定し、祝福している。
「自分が生きていくために」言葉を綴り、歌を歌いデビューを果たしたさユりは今、「他者を祝福するために」言葉を綴り、歌を歌っているのである。
この変化と成長の軌跡。
冒頭に戻るようだが、その軌跡が、本作『ミカヅキの航海』の本質なのだ。

“ミカヅキ”から始まる本作は、これもまたとても象徴的なタイトルを冠された楽曲“birthday song”で幕を下ろす。
孤独に包まれた世界に生きる者から同士へ、たったひと言だけ届けることができる祝福の言葉が何度も何度も歌われる、静かで穏やかな曲だ。

《行きたい場所などどこにもなくて/生まれた場所はわからなくても/せめて せめて せめて せめて せめて》
《生まれてきた命には/せめて愛を、 愛 を》
《ハッピーバースディ トゥーユー》

「去年の6月、二十歳になる直前に作った曲ですね。 時間をかけずにできた曲なんですけど。 最初にバースデイという言葉がありました。 誰かが隣で笑っていて、でもその隣で誰かが悲しい顔をしている時、自分はどういう思いで生きていけばいいかわからない。 れたい、忘れたくない。 人が好き、人が好きじゃない、っていうどちらにもメモリーを振れない中で生きてきたので。 それでも、誕生してきたことを祝いたい。 そういう思いがあって」

そう、“birthday song”はとても明確に、驚くほどまっすぐに「あなた」に向けられた楽曲である。
さユりが今歌える最大の肯定——その意味において、さユりが今歌える、唯一のラブソングと言ってもいい。

「“ミカヅキ”は自分に向けての決意を歌ってましたけど、“birthday song”はそんな歌を歌ってきた自分が、世界に対してひとつの答えを出した曲だと思います。 わたしはこんなふうにあなたと向き合っていきたいんですって。 なんだか、みなしごみたいな気持ちで歌う曲なんです。 明確な愛を持っていたら、誰かに向かって『ハッピーバースディ』って祝いたい気持ちにはなれなかったと思うし、自分が肯定されたかったからこう歌っているんだと思うから。 だから、『ハッピーバースディ』って、自分が言われたい言葉だったんだよなって。 そう思うんですよね」

本作『ミカヅキの航海』にあるもの。
それは孤独なひとりの少女として生きてきたさユりによる、「わたし」と「あなた」の関係、そしてギリギリの「肯定」にたどり着くまでの過程を描いたドキュメントのような作品であると同時に、生を受けた者すべてに通ずるとても大切な何か、その繊細な形、なのではないだろうか。
あえて言葉を与えてしまうならば、それは、今日も明日も続いていく日々を祝福し続けるための、静かで確かであたたかな思い、というようなものなのだと思う。

こうして、「自分」のための言葉を、他ならぬ「あなた」のための歌として、ひとり世界に立つ自分を感じながら、まっすぐに歌えるようになったさユりは、今の自分自身をこう語る。

「ちょっとずつ大人になってきたのかなって思います。 子供、学生のうちは自分の中で悩んでいるだけでよかったりして。 自分の輪郭が曖昧な時期って言われるけど、逆にくっきりしていたなあって思うんです。 最近はむしろ、ひとりで生きられなくなったら大人なんだろうなって思うんです。 誰かに必要としてもらわないと生きていけない、誰かに必要とされることが自分の輪郭を作っていってくれるんだっていう。 それが自分になるんだって思うんですよね」

さて、さユりはこの世界に向けて、これからいかなる言葉を投げかけ、いかなる祝福の形を見つけていくのだろうか。
この世界に無数に存在しているさユり的なる存在、孤独と向き合いながらも今夜も夜空を見上げる「ミカヅキ」たちに、いかなる肯定のメッセージを届けていくのだろうか。

ひとりの「ミカヅキ」、酸欠少女・さユりの航海はたった今始まったばかりなのだ。

小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)

「平行線」とは?

あなたにとって、さユりとはどんな存在なのだろう?
あるいは、どんな存在になり得るのだろう?

さユり、ニューシングル『平行線』は、そんなテーマを投げかけてくる重要な作品だ。

時代の真実を射抜く鋭い視線、鋭い言葉の力を持った表現者。
その細かく震える声で、僕たちが生きる中で感じる不安にシンクロし、救うシンガー。
切なさと重さと儚さを絶妙に込めたメロディで、音楽の可能性を今新たに問い直す提案者。

さユりはこれまで発表してきた楽曲のすべてで、そんないくつもの「顔」を見せてきた。
そして、そのいくつものファクターを音楽に込め、珠玉の楽曲を作り続けることで、多くのリスナーの孤独に形を与え、救済のメッセージを発してきた。
きっとリスナーの数だけ、「さユり」という人へのイメージは存在しているのだろう。

その意味において、“平行線”は、そんなさユりの巨大なポテンシャルがあらゆる面で突き詰められた、あるひとつの到達点と言ってもいいだろう。
彼女のすべてが詰まった、現時点での最高傑作とも言える。
紛れもない新たな代表曲である。

何しろ、“平行線”である。
「向こう側の世界」、つまり現在と並行して進む(ものとして存在しているかもしれない)パラレルな世界への思いを歌ってきた「パラレルシンガーソングライター」を名乗るさユり。
彼女にとって、「平行線」という言葉、概念はまさにさユり的なるもののど真ん中、彼女の独自の感覚を象徴する何かだったのではないか。
そして、この概念に、「誰も理解し合うことはできない」というネガティヴなメッセージではなく、「平行線のままでも、つまり、ありのままのあなたとありのままの私のままで交わろう」と歌うことができるものも、また彼女だけの強さと確信なのだろうと僕は思っている。

アニメ『クズの本懐』のエンディングテーマとしてオンエア中のこの楽曲だが、さユりはこの作品との出会いが、“平行線”という代表曲を生んだと語る。

「完成したのは最近というか、2016年の秋ですかね。
『クズの本懐』のエンディングになるっていう話を頂いて、原作を読んだうえで完成させたんですけど、原作から多大なる影響を与えられています。
原作と一番重なったのが、『弱さ』というか。特に主人公に対してなんですけど、傷つくのが怖いという弱さを肯定できるように書きたくて。
原作の中でも主人公が変わっていくんです、より弱くなっていったりもする。
でも最終的に主人公はある行動を示すのでそのエネルギーをもらって。
最初は私の頭の中にある世界だけだったんですけど、主人公の行動に寄り添えるように作っていきました」

「弱さ」を抱え、向き合い、なんとか肯定しながら前に進んでいくーー。
そんな決死の姿勢こそ、まさにさユりがデビュー以来、一貫して歌い続けてきたメッセージの本質そのものであることは、きっと多くのリスナーがすでに知っているのではないか。

さユりは、野田洋次郎提供による前作シングル『フラレガイガール』からの流れも大きかったと続ける。

「“フラレガイガール”からのエネルギーもあって。なんとか行動を起こすという覚悟に寄り添えたんです。“フラレガイガール”は主人公と自分の姿が重なったので。
感情の揺らぎの中で少しずつ変化していって、次に進もうっていう曲だったと思うんですけど、それを歌えたからこそ、自分の中にあった、変わらなきゃいけないけどフタをしていた思い、動かなきゃいけないという気持ちが湧いたというか。
それがなければ、“平行線”も、『私たちは平行線のままだね』で終わっていたかもしれないですね。
これまで経験してきた悲しい思いがあったおかげで“フラレガイガール”が歌えたっていう感覚もあって。
だったら、悲しみも恐れなくていいんだ、いつか全部プラスになるんだっていうことをすごく感じたので。
“平行線”も変わっていくのが怖いっていう、弱さから始まっている歌なので。
今踏み出しても傷つくかもしれない。
でも、それもいつかプラスになるんだろうなって信じられた。
傷ついても平気だって、いつか意味があるんだっていうことを込めて書きました」

そう、“平行線”は、「私たちは変わることができない」「私たちは平行線の関係にある」という事実を歌う曲ではない。
そんな悲しみや事実を受け入れながら、「それでも」前に進もう、「それでも」私たちは交わることができる、と信じる歌である。
そんな真摯な覚悟を、まるでえいやっと投げかけるような儚いほどの歌声で歌う、まさに決死の音楽である。
事実を受け入れた上で鋭くまっすぐに歌われる「それでも」の温度。
それこそが、これまでさユりが、その二十年の人生をかけて見つけ、描いてきたメッセージのすべてである。

“平行線”がさユりにとって、現時点での最高傑作であると僕が考える理由はその「それでも」の温度の深さ、強さにこそある。
そして、その強く、深い「それでも」の温度は、その強くて若くて蒼き確信ゆえに、これまでのどの楽曲よりも儚く切なく響くのである。

そんな“平行線”、サビでさユりが歌うのはこんな言葉だ。

《太陽系を抜け出して 平行線で交わろう
 そんな叶わない望みも不甲斐ない声も引き連れて
 感情全部流し切ったら描き初めてみせるよ
 私と君の影に今手を伸ばす 平行線》

ここにあるもの。
それは、細かく繊細に震えるあの歌声。
しかし、それは繊細さを超えて、「その向こう」へ突き抜けようと伸びやかに飛んでいく力強い、新たなさユりの歌でもあり、「平行線」である関係性を受け止め、「君」へと手を伸ばす思いであり、何より、救いと受容、決死の愛情の言葉の連なりなのだと思う。

そんな「すべて」を込めた“平行線”に出会うことができたさユりは、ここからいかなる思いを歌っていくのだろう。
「さユり」という人は、僕たちすべてのリスナーにとって、いかなる存在になっていくのだろう。

「最近思ったんです。歌って漠然としてるんですけど、ほかの職業と一緒なんだなって。
先生は勉強を教える人で、お医者さんは病気を治す人で。
歌手って世の中になくてもいい職業みたいに言われるんですけど、違うな、一緒だなって思ったんです。
動物の世界にお医者さんっていないじゃないですか。
きっと、お医者さんも助けてるのは、命だし、もっと言うと心だと思うから。
そういう意味で、お医者さんも警察官も絶対にいないといけない人だと思うから。
歌手も、芸術家も同じだって。
心を助けてあげてるんだって。
歌ってふわふわしてるんですけど、ちゃんと目的があるんですよね。
歌で何かをもたらすっていう。
自分で、そういう人になりたいって思うんだったら、その結果を得られるようにしていかなきゃいけないんだって思いました。
歌手って、自分の中でも漠然とした職業だったんですけど、心を救う、背中を押すんだっていう目的を持って進んでいきたいと思えるようになりましたね。
でも、それに気づいたからこそ、難しくなるんだろうなっていう予感はあって。
ドキドキしてます」

こうして新たな使命に気づき、前を進むことを決意した二十歳のシンガーソングライター、さユり。
“平行線”という代表曲を生み、歩み続けるその足取りの先にあるものが楽しみで仕方ないのは、きっと僕だけではないはずである。


小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)

さユり「フラレガイガール」とは?

前作にあたる配信シングル『るーららるーらーるららるーらー』から5ヶ月、さユりが放つ待望のニューシングルはRADWIMPS・野田洋次郎による作詞作曲である。
その名は『フラレガイガール』。
タイトルからも連想される通り、恋人に突然去られたシチュエーションとその心情が繊細に綴られた、一人称が印象的なミドルテンポナンバーである。
文句なしに素晴らしいラブソングである。

《愛をひろいあげた手のぬくもりが 今もまだ残るのです》
《「これさえあれば」とお互い口にして すべてを分かり合った》
《それだけで もう生きていけると 思ったのです》

ひとつの恋愛に賭けられたピュアなる思いの吐露から始まり、流麗なメロディの起伏に沿うように、「彼女」のリアルな感情は怒りに振れ、悲しみに振れ、やるせなさに振れ、様々な表情を見せていくことになる。
つまり、この楽曲を歌う、ということは、ひとりの女性としてあまりに多くの感情にシンパシーを持ち、リスナーを導き、そしてひとつの物語を織りなしていく―—ということだ。
“フラレガイガール”という楽曲が、歌い手に要求する表現のレベルは極めて高かっただろう。

そんな楽曲に、さユりはどう向き合ったのだろう?

「自分で作った曲を歌うときはあまり考えないんですけど、私はこういうふうに歌ったら明るく聴こえるんだ、じゃあもっと不安に歌ってみようかなとか。考えながら歌いました。ちょっとでも口先の形を変えるだけでこんなに聴こえ方が違うんだなんて考えたこともなかった。書いて頂いた曲ですし、より大事にしなくちゃと思っていた、ということなのかもしれないけど、心を込めて歌いたいとあらためて思ったんです」

本人の言葉を少し言い換えさせてもらうならば、さユりは今回、“フラレガイガール”を歌うさユり、という存在を客観的に見つめ直した、ということなのだろう。

さユりの強みとは何なのか?
さユりの弱さとは何なのか?
さユりの琴線とは何なのか?
さユりとはどこから来てどこへ向かっているのか?
そして、歌い手・さユりとは一体どんな存在なのか?

そういったたくさんの自問自答を繰り返し、さユりは、今さユりがなるべきさユりになっていった―—。
文学的に言い切ってしまうならば、そういうことなのだと思う。

事実、彼女はそんな試行錯誤を経て、歌い手・さユりとしての新境地を切り開いたと言える。
脆く崩れそうな心、強がりとしての言葉、こらえがたい切なさ、悲しみとそこから立ち直ろうとする勇気、あるいは、不意に襲ってくる孤独感——。
そんなたくさんの裏腹な感情をその小さな全身でぎゅっと抱きしめている女子の姿。
この曲はいわば、あるひとりの女の子の人生、そのワンシーンをリアルに切り取っているかのようであり、さユりもまた、ひとりの人間としての生き様を投影させていったのだと言う。

「まず、お風呂で朗読しました(笑)。一曲の中での心の揺らぎが特徴的な歌詞だと思うので、その揺らぎをそのまま歌うというか、愛しい気持ちを思い出すような感じで、ひとりのフラレガイガールとして生活して、その生活の中で生まれてきた言葉を口にする感じで歌うといいんだなと思いました。この曲って、リアルタイム感が強い歌詞というか、言葉が溢れ出してくるというか。《わたしをフッてんじゃないよバカ》って言いながらやるせなくなってきたりとか、その時々の感情がそれぞれにあって。であれば、そこに自分がいないと言葉もメロディも流れていってしまうなと思ったので。そこに自分が実際に存在しているということを大事にして、自分をその言葉に埋もれさせていくのが難しかった」


そう、この曲でさユりが出会えたのは、リアルに湧き上がってくる喜怒哀楽を歌う、ひとりの日常生活者として自然に存在している、さユりだったのだろう。
普遍的な歌——という言葉をさらに噛み砕き、「誰にでも届く歌」とするなら、ここでさユりが歌っているのは、まさにそういう歌である。

先日行われたワンマンライブでこの曲が披露された時、おそらくその場が初聴きであったであろう、あまりに多くのオーディエンスが泣いていた。
それはどこか奇跡じみた光景であるとも思う。
だが、“フラレガイガール”を聴き込んでみると、この「奇跡じみた」光景は、むしろさユりが新たに出会った「普通の自分」によって生み出されていることがわかるはずだ。
そして、その不可思議な現象こそが、今回“フラレガイガール”で稀代の表現者・野田洋次郎と、絶対の存在感を持つ歌い手・さユりが成し遂げたことなのだとも思うのである。

「次の“アノニマス”の一番最初のモチーフは2年前からあって。最初からあったのは、《悲劇を欲する》という言葉だったんですけど。2年前は、それは『自分が悲劇を欲している』ということを歌っていたんです。でも、今回仕上げていくために、『じゃあ、どうして自分は悲劇を欲しているんだろう』ということを見つめていったんです。そしたら今の世界との共通点が見えてきて。自分が歌う意味があるなと思えたんです」

続く2曲目、“アノニマス”でも、僕たちは新たなさユりが生み出した世界に触れることができる。
ファンであればピンと来るだろうが、性急にかき鳴らされるギターストロークが躍動するようなビートを生み出す、いわばさユり節が効いた楽曲だ。
だが、これは「いつもの」さユり楽曲ではない。
ここにあるのは、さユり自身が何かを吐き出すように歌う「さユりそのもの」ではなく、そんなさユりも含めて回り続ける「世界そのもの」の有り様だったりする。

この曲が生まれてきた背景を振り返り、さユりはこう続ける。

「人に向けて歌うことを前提で書いた曲なんですよね。目の前の人に届けることを前提に作ったという意味では今までで一番かなと思います。私、ファンの方に、『なんで人って生きてるんだと思いますか?』ってよく聞かれるんです。その質問には、純粋なクエスチョンと、『なんで人は生きなきゃいけないのか』っていう意味が込められていて。そういう方に対して今までは、一曲一曲が寄り添う答えになればいいなと思っていたんですけど、最近は違ってきて。自分自身が生きる意味になればいいんじゃないかなと思って。私が歌うことでその質問の答えになれればいいなとすごく思っていて。その関係性の中でつながりたいという思いを込めて、みんなが生きていてもいいと思えるような、信じられる何かになれたらいいなという思いを込めて作ったんです」

そう、さユりは、とても重要な、大きな一歩を踏み出している。
自分自身の中から何かを絞り出すように、まるで何かを宣言するように歌ってきたその歌の、さらに向こう側に広がる景色を見つめ、音楽を生み出している。
その決意と変化の現れが、“アノニマス”であり、この楽曲にあるダイレクトな呼びかけなのだと思う。

《アノニマス 言いたいことがあるなら姿を見せてよ》
《アノニマス 今 届いているのなら、応答してよ》

目の前の「あなた」、そしてまだ見ぬ不特定多数の「あなた」へ向けられた、抜き差しならない叫びの歌。
その新たな欲求が“アノニマス”というメッセージを生んだのだとして−−。

二十歳のシンガーソングライター、さユりはここからどんな出会いを求め、いかなる旅路を進んでいくのだろうか。
自問自答を繰り返し、自分自身の居場所を探しながら、その「歌」にたくさんの、新たな表情を与え、そしてその歌でまだ見ぬ「あなた」と出会い生きていく、そんな生き方。
さユりの歩みとはきっと、無数の「あなた」たちを救い続けていく旅路のことだ。

そんなさユりの現在の佇まい、その誠実なる存在感が、この楽曲たちのリリースをきっかけにこの世界中に広がっていくことを期待してやまない。
そして、このシングル『フラレガイガール』は、その手応えを大いに感じさせてくれる、あまりに重要なシングルであると思う。

小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)

さユり「るーららるーらーるららるーらー」とは?

この声の奥には一体何があるのだろう?

さユりについての原稿を書かせてもらうのはこれで3度目になるが、書く機会に直面するたびに強く思わされるのはそのことだ。
ピュアな歌声。透明な歌声。いつも細かく震え続ける歌声。
そして、自分自身を鼓舞するように常に歌われる「何とか前を向くのだ」という言葉。
彼女の歌にはいつもいくつかの共通点が刻印のように刻まれている。
そして、そんな儚さと脆さ、しかしだからこそ強くあらねばならないという決死の響きがその歌声の素晴らしい魅力になっている。 では、その声や佇まいの向こう側にあるものは一体何なのだろう?
言い換えると、さユりはここまでどう生き、どう考え、何を感じ、そしてなぜ歌うことにしたのだろう?ということだ。
今更そんなことをあらためて思うのは、今回配信でリリースされた『るーららるーらーるららるーらー』に刻まれているもの、それはまさに、
さユりの「ここに至るまでのすべて」であるように感じるからだ。
もっと言うなら、この楽曲“るーららるーらーるららるーらー”はさユり自身による、「さユり」とは何なのか?という宣言と言ってもいい。
そんなふうに思えるのである。 さユり自身は、この楽曲が生まれてきた背景をこう語る。

「この曲は15歳の時に作った曲なんです。その時、私は自己嫌悪にまみれていて、世界がキラキラしているように見えて。
自分はすごく汚いと思っていたし、自信が持てなかった。
言いたいことが言えなくて、なんとか曲を作ったり歌うことでつながろうとしていた時期なんですけど。
この曲を作った1年前から音楽活動を始めたんですけど、でも自信はなくて、むしろ歌うのが好きなことを隠してたんです。
でもその中でも歌うと褒めてくれる人がいて、それが嬉しくて。
それで何でもいいから歌おうと思って、自分自身の声で歌おうとして作った初めての曲がこの曲だったんです」 “るーららるーらーるららるーらー”は性急なギターストロークから始まる。
蒼さ、焦り、悲しみ、やるせなさ――そんな「若さ」にまつわる何かを振り切って走り出すようにこの曲は始まる。
やがて耳に突き刺さってくる歌声。
そして、その歌声は《自分自身と遠ざかるばかり
君との距離は近づかない》と綴り、絶望の風景から、世界と自分のことを歌い始めるのである。
まさにさユり自身が語ってくれたように、この曲を作った15歳のさユりにとって、「自分自身」とはどんどん遠ざかっていくものであり、
「君」(これもおそらく、追いかけても重なることのできない本当の「自分」のこと、でもあるのだろう)とは常に離れていってしまうものだったのだ。 そう、さユりの歌とは、このどうしようもない悲しみとやるせなさの風景から始まっている。
と同時に、だからこそ、そんな悲しみややるせなさを振り切って、あるいはしっかりと受け入れて前に進むための「強さ」を求めるようにして歌われる。
その意味において、さユりの歌とは、その始まりの瞬間からすでに、「どう生きるのか?」という問いかけに対する答えとほぼ同義だったのだろう。

このように「距離」を認識することから始まったこの曲は、サビに差し掛かり、光を見出す。そして、さユりは力強くこう歌う。

<ぐるって廻って 貴方は笑った 世界が変わる音がした>――。

必死に言葉を綴り、全身全霊の声で歌うことで変わっていく世界。
そのギリギリの手応えだけが、15歳のさユりにとって歌うことの唯一にして絶対の理由だったのだと思う。 「生まれたままの曲ですよね。ライヴの状況そのままなんです。お客さんがいて、私がいて。その中に15歳の私がいて。ライヴってキラキラしてるじゃないですが。そのままなんですよね、歌詞で書いていることが。だから歌ってると泣きそうになります」

さユりはこの曲を歌うと泣いてしまう、という話を続けて聞かせてくれる。

「2番のサビで、《るらって歌った僕は泣いてた》っていう歌詞があるんですけど。まさに、るらって歌ったその時にできた曲なので。
歌って泣いてましたね。その時は、歌うってことが特別で。なかなか歌えなかったんですけど、この時は歌えてしまったというか。歌いたくなって歌ってしまって、それで泣いていたというか。その情景がこの曲なんですよね。
だから、この曲は早く出来上がった曲なんです。歌詞もそうですね、いっぺんに書きました。メロと歌詞が同時に出てきました。
本当に自分ですね、そのままの自分っていう感じで。
でも、タスキを繋いでいる感じはしますね。たぶん今歌っている自分は、これから先の自分にタスキをつないでいるんだなっていうか。
何かをつなげてくれる曲だなと思います」 そう、この曲を読み解くカギは、さユりの歌とは悲しみとやるせなさから始まっている、ということ、
そして、彼女がいるその世界は、歌うことで「ぐるって廻る」ものだった、ということだ。
なんだか汚くて涙が出る「僕」。
その対極に存在している、キラキラ眩しく、遠くにある「君」。
そんな相反するふたつのイメージがこの曲を歌うことで、ぐるっと廻り、つながっていく。
前に進んでいくことで、その道がもうひとつの真実につながっていくメビウスの輪のように、15歳のさユりは、この曲を生み、歌うことによって、本当の「自分」に出会うことができたのではないか。
その奇跡のような瞬間のことを、さユりは、「世界が変わる音がした」と歌っているのである。 「世界が変わる音がした」から、そこの居場所を見出すことができた15歳の少女のあり方。
曲を書き、歌を歌うことで本当の自分と出会い、この世界に歩みを刻んでいくことの覚悟を固めることができた15歳の少女の人生。
“るーららるーらーるららるーらー”がダイレクトに伝達してくる決死でギリギリの物語。
僕はただ、この細かく震え続ける儚い歌声の来た道を思うと、その佇まいの背景にあるものを見るようで妙に深く納得してしまう。
と同時に、この歌声が不可避的に抱えている「始まり」の物語に胸が突かれるような思いしてくるのである。
何より、今、20歳まで生きてきたさユりは、これからもメビウスの輪のような、悲しみとやるせなさを歌うことでその「先」の風景とつなげていくような生き方をずっとずっと続けていくことになるのだ。
ただまっすぐであろうとするこの「表現」にどこか神聖なる透明感を感じるのはきっとそのあたりに大きな理由がある。 「うん、始まりですよね。この前、やらせてもらったツアーは、『ミカヅキの航海』っていうタイトルだったんですけど、あらためて考えると、“るーららるーらーるららるーらー”に詰め込んだ感情を帆にして走ってきた感じがあります。
この曲に詰めた感情のすべてを通して、私はあらゆるものに出会っていくのかなって」

そう、この曲は「始まり」の歌でありながら、「生き方」をあらかじめ宣言している曲であり、歌うことの「目的」そのものでもあるのではないか。
“るーららるーらーるららるーらー”、それは15歳のさユりが自らに書き示した、「これまで」の軌跡、そして、これから先の未来に待っているもの、
そのすべてなのである。

(小栁大輔/ROCKIN’ON JAPAN編集長)

さユり2ndシングルとは?

やっぱり歌の話から始めるべきだろうと思う。

さユりにとってデビュー以来、2枚目となるニューシングル『それは小さな光のような』。
このシングルにはたくさんのトピックがある。
梶浦由記の作詞作曲による楽曲であること。
しかもそれがまた梶浦節としか言いようのない独自のリリシズム、
あるいは終末観と希望のコントラストが際立った名曲である、ということ。
加えて、さユり本人も大好きだと語るアニメ
『僕だけがいない街』のエンディングテーマに抜擢されていること。
昨年8月にメジャーデビューを果たして以来、
日々加熱していく状況でリリースされる待望の作品であるということも含め、このシングルには語るべき点が多くある。 だが、それでもやはり、彼女の「歌」をめぐる話から始めなくてはならないなと思う。
彼女の歌は、そんなたくさんの「語るべき」ことを超えて、胸を突き上げ、
理性の壁をぶち破り、意識の最前面に浮かび上がってくる。
「まず触れてほしい。まず愛してほしい」と、すごく青臭い言い方が許してもらえるならば、
そんなふうに胸に迫ってくるところがある。

精一杯のアタック感を込め、まっすぐに放たれる一音目のインパクト。
若さと蒼さそのもののような向こう見ずで捨て身のエモーション。
リスナーの興味と刺し違えるかのような強烈な覚悟。
そして、怖いくらいに澄み切っている純粋無垢なる動機――。
細かく繊細に震え続けるあの歌声が僕たちに伝えるものはあまりに多い。 さユり本人はこの曲を歌うために、自分自身に多くのことを問いかけたと言う。
「やっぱり自分は弱いし、未完成だけど、『それでも前に進むんだ』っていうことは、前回のシングル『ミカヅキ』で歌ったことでもあって。
そのテーマは、“それは小さな光のような”でも通じていて。そういう部分は自分の思いとして歌えるなと思ったし、
今よりももっと前に進むためにこの曲を歌うことになったのかなと思ってるんですけど。
サビの頭で『守りたいと思う』って歌ってるんですけど、そこは歌うのに勇気が必要でしたね。ドキドキしました。
自分の中にあるけど、言葉にはできない言葉だし。自信がなかったとりとか、おこがましかったりするんですけど、
でもこの曲を歌い続けることによって自分も変われるのかなって思いました」

さユりも言うとおり、この曲は「“それでも”前に進むんだ」という決意を歌う曲であり、そのテーマはさユりがデビューシングル『ミカヅキ』で宣言した
「それでも誰かに見つけて欲しくて/逃げ出したいなぁ、逃げ出せない」という言葉ともしっかりと繋がっている。
あえて言うなら、『ミカヅキ』で歌った宣言の明確な「その先」を描いた曲、ということもできる。
梶浦由記がさユりという表現者に対して、彼女が背負うべき「その先」を示している、と言うこともできるだろう。 “それは小さな光のような”への思いを繰り返して語る。
「誰かを『守りたい』っていう気持ちは自分の中にないものではないです。ただ、自分の中から出せないというか、まだ小さい炎で。
でも、原作の漫画の中にもあったんですけど、「口に出して言ってるうちに本当になる気がする」って。
だから、私もこの曲を歌ってたら、外に向かっていけるんじゃないかと思って。
そう思いながら歌っていこうと思ってます。この曲を歌うのは……パワーがいりますね」

冒頭でも書いたが、この楽曲には歌い手・さユりの、素晴らしい歌の力が渦巻いている。
彼女の声はここでもどこか寒そうに震え、決死の覚悟に寄りかかっているかのように儚く聞こえるだろう。
だが、聴き逃さないでほしい。ここでは“ミカヅキ”では歌うことのできなかった確かな希望が歌われている。
その新たな希望を歌うために、さユりの震える声はかつてより少しだけ強く、まっすぐで、とても開かれた、もっと言うならば、
とても無防備なものになっている。
自分の世界を守るために歌ってきた19歳の少女が、「君を守る」と宣言するということは、つまりそういうことなのだろうと思う。 当然、そこにはたくさんの乗り越えるべきものがあった。さユりは語る。
「この曲は何回も歌いました。何かを破らないとたどり着かなかったです。
まだライヴで歌ってないので、人前で歌う時はどうなるのかなって楽しみですね。
メッセージが薄くなるか厚くなるか。私がどう歌えるかですよね。
今回の歌は――梶浦さんの曲ってすごく綺麗じゃないですか、
でも綺麗なだけじゃない、いろんな思いが詰まってるから。
綺麗さとか表面だけで歌っちゃいけないと思ったから、何かを込めることができたのでしょうか」

そして、このシングルには“それは小さな光のような”と同じだけ饒舌に、今のさユりの本質を指し示す、
大切な楽曲が収録されている。
それが2曲目、“来世で会おう”だ。 焦燥感が突き動かしていくイントロ。
「過去は変えられないさって何度言われても懲りないのね」と、
性急に生きる自分を戒める言葉。
「もう行かなくちゃ、受け入れなくちゃ」と叫び、突入していくサビのメロディ。
そして、何より胸に残るのは――やはり歌だ。
目の前に描いた一本道をただひたすら疾走していくかのように、
こちらが悲しくなるほどのまっすぐさで、
若さと無垢なパワーだけを頼りに走っていくようなさユりの歌。

この曲は“それは小さな光のような”で見つけた、自分の中にある小さな炎をさらに燃やし、
自らの意志で世界を切り開いていく曲である。
そして、さユりが初めて歌うことができた、「肯定」の宣言なのではないか。 さユりは、この楽曲が生まれてきた背景をこう語る。
「私、後悔ばっかりしてるんです。パラレルワールドが好きっていう話をしたと思うんですけど、
この道を選ばなかった自分が違う世界で生きてるんじゃないかなと思っていて。
現世では会えないけど、違う世界で頑張ってるかもしれないから。じゃあ、私も頑張ってみようって。
『あの時こうしていれば』っていう思いで、選ばなかった自分に対して思いを馳せるんですけど、私は自分の意志でここにいて。
だから、悲しいことも肯定したい。間違いじゃなかったって思いたい。そう信じられるようになろうって。
これは、“それは小さな光のような”と対になってる曲だと思います。
あっちは過去を変えることで過去に挑む曲。
こっちは過去は変えられないさ、っていう言葉から始まって、
過去を変えられないんならどうするか。
現世を生き抜くしかない。頑張るしかない、という曲です」 この曲には明確なハイライトがある。
それはいわゆるDメロ。2回目のサビと最後のサビを繋ぐパートである。
実は、Dメロを作ること自体、さユりにとってはとても珍しいことであり、ということは、逆に言えば、
このパートは「どうしてもなくてはならなかった」もの、ということになる。
その歌詞はこうだ。
《許せるだろうか/そんな日が来るとしたなら/君は待っててくれるだろうか/この痛みの先で》――。

「ここは最後に書きました。『許せるだろうか』っていうところはすぐに出てきて。精一杯の希望を込めました。
『この痛みの先で』っていう言葉が必要だと思ったんでしょうね。
来世で会おうって、聴き方によっては、今すぐに死んじゃいたい、っていう歌かと思うと思うんです。でもだからこそ、
『この痛みの先で』っていう言葉が必要だったんだと思います」 何度も書いているように、“それは小さな光のような”と“来世で会おう”は分かちがたく繋がっている、と僕は思う。
文字通り「小さな光」として自身の中に宿った希望の炎を頼りに、
「来世」というパラレルワールドにいる「私」に向かって、まっすぐに肯定のメッセージを放てる自分になること。
そこには、ひとつの、確かな物語がある。
そして、その物語はそのまま、さユりという、震える声で世界に向き合い続ける19歳の少女の成長の物語である、
と言い換えることもできる。

そんな大切な2枚目のシングルは、さユりにとってどんな意味を持った作品になっているのだろう。
「私にとって、歌うことが自分を肯定する唯一の術なので。
どんなことがあってもここに帰ってくると思うし、
“それは小さな光のような”の力が必要になってくると思うし、
“来世で会おう”で歌った『信じるために歌うんだ』っていう気持ちがきっと、自分の原点になるんだと思います」 さユり、2枚目のシングル『それは小さな光のような』。
これは、19歳のシンガーソングライターの生きる道を照らす確かな光のような作品であり、
そして、それと同じくらい、「現世」を生きるすべての人の日々を肯定したいと歌われる、
無垢で儚い、悲しいくらいに美しい「願い」のような作品でもあると、
僕は思う。

全身全霊を捧げ、全身全霊を震わせ、
そしてたったひとり、一筋の希望を示そうと戦うシンガーソングライター、さユり。
彼女は、ここから世界をどのように受け入れ、
生き抜き、愛していくのだろうか。

小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)

さユりとは?

これはいい。初めて聴いた瞬間にそう思った。
ナチュラルに震え続ける声。
ビブラートとも違う、繊細な揺らぎを湛えた歌声。
吐息のひとつひとつがメロディに寄り添い、その揺れが抜き差しならない切迫感を伝える歌声。
――そう、まず僕がこの人に対して強い興味を抱いたのはその「歌声」に対してだった。
重要なのは、歌の善し悪しではない。あえていえば、彼女自身の持っている「歌声」と、「曲」の相性が抜群にいいなと思ったのだ。
もう少し正確に言い換えてみよう。
さユりの「歌」は「この曲たち」を歌うために存在している。そして、「この曲たち」を「歌う」とき、さユりのイノセントな歌声は、何より無二で最強で、彼女にしかできない「表現」になる。
僕が思うに、この「歌声」に支えられ導かれてきた彼女は、この歌声で生きていくためにこの曲たちを生み出すことになり、そして、その歌と曲が織り成す「最強の関係」において、誰にも侵されない自分だけの世界を作り上げてきたのだろう。 その世界だけが、この「酸欠少女」が自由に呼吸することが許される唯一の時間であり、空間だったのではないか。
そう、さユりの歌には、これをなくしては存在し得ない、繊細で脆く、だけどだからこそ美しく無垢な、圧倒的な強さが宿っている、という話だ。

絶対に注目しておいてもらいたいシンガーソングライター、さユり。
彼女は今まだ19歳だ。
ライヴを観ると無邪気であどけない表情で感情を爆発させる姿が印象に残る。その姿を見れば「ああ、19歳なんだな」とも思うし、「わたしはこれをやるべきなんだ」という強い確信が溢れる凛とした姿勢からは永遠を思わせる覚悟もまた伝わってくる。
そんなことを伝えると彼女はこう話してくれる。 「内心すごく緊張していると思うんです。でも、緊張してるっていう自覚があまりないです。わーって感じです。でも体は壊してるっていうか。自分の体が出してるサインを無視しちゃってるっていうか。それは昔からずっとバラバラでしたね。
でも楽しいです。自分が自分じゃないみたいな。お腹が痛くなってきてから、『あ、わたし、緊張してるんだ』みたいな。自分がふたりいるみたいな感覚になって、自分が友達みたいな気分になることはあります」

さユりが歌を歌い始めたのは、中学生の時。僕は、その瞬間のことをしっかり聞いてみたいと思った。それこそ、この人にとって「歌」は何よりも先立つ「居場所」になっていると感じたからだ。そういう歌を歌っている彼女はきっと、いまも昔も変わらず、「酸欠少女」だったのだろうと思ったからだ。

「居場所だって思ったのは、やる側になってからですね。人の曲を聴いて救われたっていう感じじゃなかったので。中学2年生でしっかり音楽をやり始めて、『あ、これが居場所だ』と思い始めました。きっかけは小学6年生の時にギターを初めて触って。マイペースに練習してて、なんとなく弾けるようになったのが中学2年生だったんですけど。そのときあんまり学校行ってなかったんで、音楽やってみようと思ったのが初めてでした。 音楽やったから充実し始めたという感じはなくて。それまでがマイナス過ぎたから、そのマイナスの中で音楽をやっていて、負の感情の中でやっていること自体、マイナスを増幅させるようなものだったから、生活の変化はなかったですね。
始めたときはみんな敵だと思ってやってました。音楽をやることで楽になるって実感できることはなかったんですけど、今思えば、音楽をやってなかったらもっとひどいことになってたんだろうなと思います」

メジャーデビュー曲となる“ミカヅキ”を聴けばわかるが、いま彼女が歌っている歌は「マイナス」をマイナスのまま吐き出すようなネガティヴなものでは決してない。
マイナスの現状の中から、1%でも希望の光を見出すような歌だ。そしてその1%の希望にフォーカスを当て、現実と自分をなんとか肯定するんだという、その「意志」がさユりに楽曲を作らせている−−−−そう思わせるようなイノセントで気高い歌である。 「曲作りに関しては、それぐらいしかやることがなかったから。でも曲を作るのは楽しいとかはあんまり思ってなかったです。しんどいじゃないですか。でも、『ああ、でもこの曲、わたしが作ったんだ。じゃあまたやるか』みたいな感じでずっとやってきました。
曲の作り方は昔から変わらないですけど、その時は何も考えないでやってたので、毒毒毒、って感じで。今は人に向けて、人に何かをもたらしたいと思ってるんだって気づいたので、それを考えてやってます。
『これは救いの歌です』って言われても、そう受け取れないというか。ひとりぼっちのあなたへって言われてもそういうふうに思えなかったから。だから、自分はそういうものをあげたいという気がします」

“ミカヅキ”は現時点でのさユりの最高傑作なのだと思う。さユりが初めて、自分自身が歌うべき曲をはっきりと自覚し、その自覚が彼女に1%の希望を書かせた、そんな記念すべき楽曲である。
そして、さユりの100%の実感が生んだこの1%の希望こそ、現代の孤独を優しく抱きしめる可能性を秘めた力強い存在なのではないかと僕は思う。 そんな大切な楽曲“ミカヅキ”について、さユりはこう語る。

「サビの<逃げ出したいなぁ 逃げ出せない>というところと、<欠けた翼で飛んだ 醜い星の子ミカヅキ>というところは2年前からあって。それ以外の言葉がずっと思い浮かばないまま2年が経っていて。
劣等感ばっかり感じて生きてきたんですけど、三日月はいつか満月になるし、それを信じてそういう曲にしたっていう経緯があります。
なんで2年経ってできたんですかね? でも、サビの頭に何を持っていけばいいのかわらかなかったんですよね。
<それでも>というワードが出てきて、ハマったなと思いましたね。
聴いている人の<それでも>の先に繋がってる何かになれればいいなと思ったんですよね」

そう、さユりが語るように、さユりの楽曲の肝は「それでも」という概念だ。
自分は劣等感を抱えて生きてきた、自分は醜い三日月の子だ−−−−。だけど、だからこそ、<それでも>という歌を歌うべきなのではないか。 それが自分の歌を聴いてくれる人に届けるべきことなのではないか。
さユりはその希望をたぐり寄せながら歌を歌っている。そうやって、ギリギリの肯定を届け続けるために、これからも歌い続けるのだろう。

とても信用できる感性を持った素晴らしいシンガーの誕生である。
この希望の種はこれからより多くの人の孤独と共振し、そっと抱きしめるように広がっていくだろう。

ところでさユりの「野望」って何なんだろう? 
インタヴューの最後にそんな話をふとしてみた。とても信用できる、さユりらしい答えが返ってきた。それがなんだか嬉しかった。 「野望ですか? 優しい人になりたいって強く思ってます。私の思う優しい人は相手の大事なものをどれだけ大事にできるかっていうこと。いろんな感情を理解してあげたい、って言うと上から目線になっちゃうけど、いろんな人の『それでも』とか、その先にあるものを肯定できる自分でありたいってすごく思います」

19歳、さユり。
現代に舞い降りたギリギリの肯定、その担い手としてのシンガーソングライター。
いよいよデビューを果たす彼女の戦いを見つめていくのが楽しみで仕方ない。いま、多くの人に出会ってほしいと切に願う。

小栁大輔(ROCKIN\'ON JAPAN編集長)